世界チャンピオン（２０）

「第１３ラウンド」

無敗の世界チャンピオンと、十六歳の少女ボクサーのエキシビションマッチ。

試合は終わり、チャンピオンは控室でグローブやバンテージを外し、チェックを受けている。

その様子を、チャンピオンの婚約者は控室の壁際に立ち、じっと見つめていた。

彼の心のなかに様々な想いが去来していた。

試合でチャンピオンが見せた非情さは彼をたじろがせたが、それだけではなかった。

彼女が見せた現実主義的な戦い方に彼は驚いたのだった。

試合の前半、挑戦者に勢いがあると見るや、それを受け流して防御に徹する現実主義。

消極的な姿勢に観客からブーイングが起きても、平然とそれを続ける冷静さ。

そして挑戦者が疲弊したのを見計らって、ゆっくりと攻め始め、相手のボクサーとしての能力を丁寧に破壊していく恐ろしさ。

まるで狩りを見ているようだった。

獲物をゆっくりと追い込み、じっくりと弱らせ、やがて解体し、調理する。

試合の前半に主導権を握っていたはずの挑戦者メイ・リンは、後半にはチャンピオンにすべてを奪われて、試合を完全に支配されてしまった。

チャンピオンは最終的に試合を支配するために、前半はあえてメイ・リンに主導権を与えていたのだ。

これが王者の戦い方というものだろうかーー

チャンピオンの婚約者は、そこまで考えたとき、ふいに恐ろしい考えに行き着いた。

・・・自分も、メイ・リンと同じ立場なのではないか？

チャンピオンは、婚約者の前では、とても穏やかな大人しい女性だった。

常に大人しく、自己主張せず、デートの行き先もレストランの選択も、すべて彼任せだった。

「今回は君の行きたいところにしよう」と言っても彼女は首を振り、「あなたが行きたいところに行って。あなたが喜んでいる姿を見ると私も嬉しいから」と言った。

「僕だって君が喜んでいる姿を見たら嬉しいよ、だから君が選べよ」と言いつつも、婚約者は嬉しかった。

医師の仕事は激務で、精神的にも常に疲弊する。

男女交際で女性に気を使う精神的余裕がない彼にとって、彼女の優しさと気づかいは癒やしであった。

友人の紹介で交際をはじめたのだが、いい人と出会ったと思っている。

会う前は『女子ボクシングの世界王者』という肩書に圧倒されていたが、会ってみて、その大人しさと穏やかさに驚いた。

「30歳でボクサーは引退して、専業主婦になろうと思うの。忙しいお仕事をしているあなたをサポートしたいから」

そう言ってくれたときは、涙が出るほど嬉しかった。

（一生、この人を大切にしよう。この優しい人を・・・）

そう思っていた。

だが、いま考えると・・・

婚約者　（僕も、主導権を渡されていただけなのかもしれない・・・）

結婚が決まるまでの間、彼女は牙を隠して、彼に主導権を与え、彼が気持ちよく男性的にリードして交際をできるようにしていたのかもしれない。

今日の試合の前半に、メイ・リンが主導権を与えられ、気持ちよく拳を振るっていたように。

しかし、結婚したあと、彼女は徐々に本性を見せはじめ、彼から主導権を奪い、家庭を支配し始めるのかもしれない。

今日の試合の後半で、メイ・リンが主導権を奪われ、チャンピオンに完全に試合を支配されてしまったように・・・

そう思うと、いま、目の前でバンテージを外しているチャンピオンはーー

その拳でメイ・リンを再起不能に追い込み、何事もなかったように微笑みながらバンテージを外している彼女は、とてつもなく恐ろしく、冷酷な、ライオンのような存在に見えた。

婚約者　（婚約は性急だったかもしれない・・・）

婚約者　（いや、疑うのは良くない）

婚約者　（目を覚ませ。いざというときに腕力で絶対敵わない女と結婚するなんて、とんでもないぞ）

婚約者　（彼女の優しい目を信じろよ）

婚約者　（いや、あれは捕食者の目だ。獲物を狙う猛禽類の目だ）

婚約者　（一生、彼女にこき使われて、サンドバッグのように殴られ続ける人生になったら、どうする？）

婚約者が心のなかで煩悶を続けている間、チャンピオンは穏やかに微笑みながら、黙って彼の顔を見つめていた。

その黒目がちの目は、まるで彼の葛藤をすべて見透かしているかのようだった。

婚約者　（ま、まあ、もう少し様子を見よう。彼女は30歳になったら結婚すると言っていた。あと2年ある。2年間、ゆっくりと見極めて、危険だと思ったら婚約を破棄すればいいんだ）

ふいに、座っていたチャンピオンが立ち上がり、婚約者の前に立った。

チャンピオン　「ねえ」

チャンピオンは婚約者の顔すれすれまで、顔を近づけた。

チャンピオン　「私、これから試合後の記者会見があるんだけど」

チャンピオンの、何を考えているのか分からない黒目がちの目が、婚約者の目を覗き込んでいた。

その目は漆黒の闇のようだった。

チャンピオン　「その会見の席で、あなたとの婚約を発表してもいいかなあ」

彼女に間近で見つめられると、婚約者は何も考えられなくなった。

まるで催眠術にかかったようだった。

婚約者　「うん」

婚約者は、相槌を打つロボットのように頷いた。

チャンピオン　「良かった。じゃあ、そうするね・・・　式を挙げるのは2年後の予定だったけど、すこし早めてもいいかもね」

婚約者　「うん」

チャンピオン　「うん、そうしよう（笑）　決まり」

チャンピオンは白地に金色のラインが入ったガウンを肩に羽織ると、会見場の方へ歩き出した。

そして二、三歩歩いたところで、婚約者の方へ振り返った。

チャンピオン　「これからよろしくお願いしますね、旦那さま（笑）」

婚約者は気づいた。

彼女の、今夜の試合はまだ終わっていなかったのだ。

試合は12ラウンドで終わりではなかった。

彼女はすぐに次のラウンドを始めようとしていた。

そして、そのラウンドでチャンピオンと戦うことになるのは、メイ・リンではなく、彼なのだ。

そのラウンドは、これからずっと続く、彼の人生そのものなのだ・・・

・・・・・

・・・・・

その夜、記者会見でチャンピオンは一般人男性との婚約を発表し、世間は祝福ムードに包まれた。

婚約者の、これからの人生を懸けた、長い長い第13ラウンドの始まりを告げるゴングが鳴ろうとしていたーー

（完）