『彼女は、小さな触手を抱きしめた』

白いブーツの先から、水のような音がした。
ここは深い、とても深い部屋。時折、壁に揺れる光の粒が、どこかの海を思わせる。

エルフの娘は、静かにしゃがみこむ。
その視線の先には、小さなタコのような――でも明らかにそれ以上の存在感を放つ、赤子のクラーケン。全身が柔らかく、まだ完全には世界の形に馴染めていないような、不確かな輪郭をしている。

「泣いてるの?」と、彼女は言った。

返事はない。もちろん、言葉では交わされない。でも、確かに何かが伝わってくる気がした。濡れたまつ毛、吸盤の小さな震え、それから赤い瞳の奥に沈む、透明な痛みのようなもの。

彼女はマントの端で、そっと触手を包み込んだ。

「大丈夫。ここでは、誰もあなたを怖がったりしないよ。」

触手が、指に絡まる。まるで、それだけが唯一の世界とのつながりであるかのように。赤子のクラーケンは、ひときわ小さく鳴いた。水泡のように、かすかに。

――彼は、彼女のことを覚えているのだろうか。遠い昔、母の影の下で見たあの光景を。

「育てるつもりはないよ」と、彼女は笑う。「でも、一緒にいてもいいなら……うん、それでいい。」

部屋の上方から、きらきらとした光が差し込んでくる。まるで、海の記憶が降りてくるみたいに。

静かな時間のなかで、少女と怪物の赤子は、たしかに互いの温度を知ろうとしていた。

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2025-04-24 22:48

 門東青史


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