JET-POWERED F-27
第二次大戦後、世の中の情勢が落ち着き始めると、航空界も機材の更新、グレードアップが望まれるようになる
大陸横断路線にはコメットによるジェット化が始まっていたが、短距離の国内便は多くが戦前に製造された尾輪式のDC-3の独壇場であった
1万機以上が作られた同機は大戦後に大量に軍から民間に払い下げられ、大手から中小の航空会社まで、文字通り世界中に溢れかえっていた
このDC-3の代替機候補として、名乗りをあげ、最も成功したのがイラストのフォッカーF-27フレンドシップだろう
1955年に原型機が初飛行し、アメリカのフェアチャイルドヒラーでライセンス生産された206機を含めて、786機が製造された
DC-3の市場を完全に置き換えるには少なすぎる数だが、他の同コンセプトの機体はフレンドシップのそれに比べて格段に少ない製造数である
日本での活躍は1960年に全日本空輸が三菱商事経由で3機を発注したことに始まる
1961年に初号機が到着し、1964年までに25機を導入した。この中には途中で合併した藤田航空の発注した1機も含まれている
この25機という数字は当時世界最大のフレンドシップオペレーターだったことを物語る
このため、オランダ政府から全日空に感謝状が送られたほどであった
導入後はそれまでのタブやヘロン、DC-3に変わって国内ローカル線を縦横に飛び回る
高度経済成長期、国内線ビームラインの構築に大きな貢献をしたのだった
当時は幹線にバイカウントが飛び、ローカル線はフレンドシップ。全日空の体質が急激に改善された時期だった
まだ米軍占領下で「国際線」だった鹿児島~那覇線に就航していたのも本機である
今では無くなってしまったが東京~福井や岩国等今では考えられない路線に就航していた
1970年の大阪万博では羽田混雑回避のために八丈島線等が厚木発着になり、
本来軍用飛行場である厚木飛行場にこのフレンドシップが離着陸していたのは有名なエピソードである
なお、旅客は都内の全日空東京支店内でチェックイン後、バスで厚木に向かい、飛行機に乗りかえて目的地に向かっていた
最終的には秋田、山形、大島、三宅島、八丈島、福井、岡山、米子に厚木からフレンドシップが飛んでいた
やがてB727の導入、YS-11の導入が進み、1973年3月31日大村発大阪行164便の運行をもって全日空での活躍を終えた
終始国内ローカル線を担当したが、全日空の屋台骨を支えた功労機であった
さすがに戦後まもなく開発された旅客機だけあって、発展途上国の更にローカル線運行の小さな航空会社にでも出向かなければ彼女たちに会うことは出来ない
しかし、つい最近まで日本の空を良く似た飛行機が飛んでいた
F-27を近代化したフォッカーF50で、2009年まで全日空傘下のエアーセントラルが運航していた
6翔ペラで胴体も一回り大きくなっていたが、まさしく往時のフレンドシップのフォルムだった
大陸横断路線にはコメットによるジェット化が始まっていたが、短距離の国内便は多くが戦前に製造された尾輪式のDC-3の独壇場であった
1万機以上が作られた同機は大戦後に大量に軍から民間に払い下げられ、大手から中小の航空会社まで、文字通り世界中に溢れかえっていた
このDC-3の代替機候補として、名乗りをあげ、最も成功したのがイラストのフォッカーF-27フレンドシップだろう
1955年に原型機が初飛行し、アメリカのフェアチャイルドヒラーでライセンス生産された206機を含めて、786機が製造された
DC-3の市場を完全に置き換えるには少なすぎる数だが、他の同コンセプトの機体はフレンドシップのそれに比べて格段に少ない製造数である
日本での活躍は1960年に全日本空輸が三菱商事経由で3機を発注したことに始まる
1961年に初号機が到着し、1964年までに25機を導入した。この中には途中で合併した藤田航空の発注した1機も含まれている
この25機という数字は当時世界最大のフレンドシップオペレーターだったことを物語る
このため、オランダ政府から全日空に感謝状が送られたほどであった
導入後はそれまでのタブやヘロン、DC-3に変わって国内ローカル線を縦横に飛び回る
高度経済成長期、国内線ビームラインの構築に大きな貢献をしたのだった
当時は幹線にバイカウントが飛び、ローカル線はフレンドシップ。全日空の体質が急激に改善された時期だった
まだ米軍占領下で「国際線」だった鹿児島~那覇線に就航していたのも本機である
今では無くなってしまったが東京~福井や岩国等今では考えられない路線に就航していた
1970年の大阪万博では羽田混雑回避のために八丈島線等が厚木発着になり、
本来軍用飛行場である厚木飛行場にこのフレンドシップが離着陸していたのは有名なエピソードである
なお、旅客は都内の全日空東京支店内でチェックイン後、バスで厚木に向かい、飛行機に乗りかえて目的地に向かっていた
最終的には秋田、山形、大島、三宅島、八丈島、福井、岡山、米子に厚木からフレンドシップが飛んでいた
やがてB727の導入、YS-11の導入が進み、1973年3月31日大村発大阪行164便の運行をもって全日空での活躍を終えた
終始国内ローカル線を担当したが、全日空の屋台骨を支えた功労機であった
さすがに戦後まもなく開発された旅客機だけあって、発展途上国の更にローカル線運行の小さな航空会社にでも出向かなければ彼女たちに会うことは出来ない
しかし、つい最近まで日本の空を良く似た飛行機が飛んでいた
F-27を近代化したフォッカーF50で、2009年まで全日空傘下のエアーセントラルが運航していた
6翔ペラで胴体も一回り大きくなっていたが、まさしく往時のフレンドシップのフォルムだった
28
13
1406
2011-06-02 17:17
Comments (6)
YSなんかでもペラの真横に座ると結構な爆音ですからねw
丁度ポートサイドの翼下窓際に座ったのですが、プロペラの作る振動が激しくて隣りに座っていた親とすらロクに会話が出来なかった記憶がw 若干バブルウィンドー気味な窓はなかなか味な物でした
>tajiさま 先生高所恐怖症なんですか!?函館からユジノサハリンスクまで飛んでるアレですな。ああ、もう飛んできてないんだ、コークは
>外蛯沢 瑞穂さま それはごっつ貴重な経験ですぞー!!お隣台湾もフォッカー機は無くなっていますし、近隣諸国でもなかなか乗れなくなってますからね。インドネシアのメルパチあたりはまだ使っていそうですが、乗るのはちとおっかないですねw
F27はご幼少のミギリに引退(新聞記事覚えてるぞ)F50(フェラーリじゃあるまいし)も結局乗れず、国内線でのフレンドシップ系統には縁が無かったです。仕方無い、北方領土行ってAN24乗るか…って、オレ高所恐怖症じゃん(爆。
Show More