凄い胡散臭い洛陽会戦の解説 第1回
第2回が存在するかどうかも分からないけど、とりあえず解説してみます。
前作の劉曜のところで記述した内容と一部重複しますが、全般の態勢
について(328年8月)
① 劉曜率いる前趙軍主力、このほかに河内郡と汲郡にも一部を派遣
総勢100,000余、高候で石虎、洛陽城西北の金墉城で石生を撃破
② 高候(現在の地名は不明)で惨敗し朝歌まで敗走した石虎軍
③ 洛陽の東側で何とか踏みとどまっている石生軍
④ 救援準備中の襄国の石勒、臣下の多くが救援中止を諫言
劉曜が見積もった石勒の作戦行動については
・ 河朔で防勢
・ 洛陽解囲のための救援軍の派遣
・ 石虎軍の再編成、そのまま洛陽救援
襄国の政権中枢では洛陽救援への反対意見が大半を占めたという話
もあるので、劉曜の「石勒は河朔で防勢」という読みも常識的な範疇に
おいてはあながち間違ってないんですよね。
個人的には、とりあえず集まった予備兵力を石虎に増援・再編成して
この勢力をもって洛陽救援させる案が救援軍の編成完了まで待つよりも
短期間で作戦準備可能なので、一番妥当な作戦だと思います。石生が
いつまでも持ちこたえれるわけではないので。
劉曜が洛陽攻略に拘ったのにはいろんな要素があると思いますけど、
滎陽や汲県まで降伏させたとは言え、後背に有力な兵力を有する石生軍
を残して襄国まで攻め上がるのには、不安を感じたからというのが妥当
だと思います。まあ、洛陽陥とすことが河南奪回を一番印象付けること
ができるっていう政治的な側面も当然ありますが。
石勒は劉曜のこの戦略観を一笑に付します。
劉曜がattrition warfare(消耗戦)を厭わない性格であることは、
前述しましたが、逆に消耗戦を不得手とする石勒にしてみれば、襄国
近傍でそれをやられることを恐れることはあっても、洛陽で消耗戦が
生起することは必ずしも致命的な損害にはならないと判断したからでしょう。
石勒はmanuevre(機動)を主軸に作戦を組み立てる軍司令官です。
戦術の完成形とは、敵より早く「発見」し、これに対する「秘匿・欺騙」
をもって敵の行動を遅滞させ、態勢の有利を条件作為するように「機動」し、
そして「火力」をもって打撃、これを撃破する、という流れになります。
この際、衝撃力は機動と火力(近代以前なので兵の質量と同義)に
よって規定されますが、石勒は機動の優越をもって衝撃力の増大を図る
将であり、次から次への奇襲、欺騙、そして敢えて危険を冒す冒険主義
的戦闘を最も得意としていました。
石虎が大事な外征戦力を損失して河南を劉曜に席巻された時は、
さすがの石勒も焦ったとは思います、史書に著されてはいませんが。
しかしながら、石勒は劉曜に付け入るスキを発見します。「洛陽が
石生によって保持される限り、劉曜は河朔で作戦は起こさない。」
という情勢分析です。
主導権は完全に劉曜の手にはわたっておらず、石勒にもまだ態勢を
挽回する機会が存在しているというわけです。防勢に回ってしまえば
主導権は劉曜に握られてしまい、受動的な消耗戦を強要されることに
なるでしょう。しかし、わずかな可能性であっても主導権を保持して
機動による攻勢作戦を仕掛けるならば、自分の不利な戦闘は回避する
ことができます。むしろ機動戦こそ石勒唯一の勝ち目と言っても過言
ではないでしょう。
洛陽の石生が持ちこたえる限り、態勢上は「後の先」の主導権を石勒
は手にした形となります。あとは劉曜の出方待ちです。石勒の作戦実施
に当たり「摩擦(friction in war)」が最も小さくなるのは、劉曜が
現態勢を保持し続ける場合です。確信はありません、そもそも洛陽の
石生がいつまで保つのかも分からないでしょうし、劉曜を撃破するに
足る兵力が準備できたのかも不明です。それでも博打に打って出る石勒
の精神構造は病的と言ってもいいレベルの壊れっぷりだと思います。
全てが綱渡りな石勒劇場、しかし、往々にして勝利の女神というお方は
死地に自ら飛び込む大馬鹿野郎に微笑むことがあったりするのが、これ
また歴史の乙なところだったりするんですよ。
前作の劉曜のところで記述した内容と一部重複しますが、全般の態勢
について(328年8月)
① 劉曜率いる前趙軍主力、このほかに河内郡と汲郡にも一部を派遣
総勢100,000余、高候で石虎、洛陽城西北の金墉城で石生を撃破
② 高候(現在の地名は不明)で惨敗し朝歌まで敗走した石虎軍
③ 洛陽の東側で何とか踏みとどまっている石生軍
④ 救援準備中の襄国の石勒、臣下の多くが救援中止を諫言
劉曜が見積もった石勒の作戦行動については
・ 河朔で防勢
・ 洛陽解囲のための救援軍の派遣
・ 石虎軍の再編成、そのまま洛陽救援
襄国の政権中枢では洛陽救援への反対意見が大半を占めたという話
もあるので、劉曜の「石勒は河朔で防勢」という読みも常識的な範疇に
おいてはあながち間違ってないんですよね。
個人的には、とりあえず集まった予備兵力を石虎に増援・再編成して
この勢力をもって洛陽救援させる案が救援軍の編成完了まで待つよりも
短期間で作戦準備可能なので、一番妥当な作戦だと思います。石生が
いつまでも持ちこたえれるわけではないので。
劉曜が洛陽攻略に拘ったのにはいろんな要素があると思いますけど、
滎陽や汲県まで降伏させたとは言え、後背に有力な兵力を有する石生軍
を残して襄国まで攻め上がるのには、不安を感じたからというのが妥当
だと思います。まあ、洛陽陥とすことが河南奪回を一番印象付けること
ができるっていう政治的な側面も当然ありますが。
石勒は劉曜のこの戦略観を一笑に付します。
劉曜がattrition warfare(消耗戦)を厭わない性格であることは、
前述しましたが、逆に消耗戦を不得手とする石勒にしてみれば、襄国
近傍でそれをやられることを恐れることはあっても、洛陽で消耗戦が
生起することは必ずしも致命的な損害にはならないと判断したからでしょう。
石勒はmanuevre(機動)を主軸に作戦を組み立てる軍司令官です。
戦術の完成形とは、敵より早く「発見」し、これに対する「秘匿・欺騙」
をもって敵の行動を遅滞させ、態勢の有利を条件作為するように「機動」し、
そして「火力」をもって打撃、これを撃破する、という流れになります。
この際、衝撃力は機動と火力(近代以前なので兵の質量と同義)に
よって規定されますが、石勒は機動の優越をもって衝撃力の増大を図る
将であり、次から次への奇襲、欺騙、そして敢えて危険を冒す冒険主義
的戦闘を最も得意としていました。
石虎が大事な外征戦力を損失して河南を劉曜に席巻された時は、
さすがの石勒も焦ったとは思います、史書に著されてはいませんが。
しかしながら、石勒は劉曜に付け入るスキを発見します。「洛陽が
石生によって保持される限り、劉曜は河朔で作戦は起こさない。」
という情勢分析です。
主導権は完全に劉曜の手にはわたっておらず、石勒にもまだ態勢を
挽回する機会が存在しているというわけです。防勢に回ってしまえば
主導権は劉曜に握られてしまい、受動的な消耗戦を強要されることに
なるでしょう。しかし、わずかな可能性であっても主導権を保持して
機動による攻勢作戦を仕掛けるならば、自分の不利な戦闘は回避する
ことができます。むしろ機動戦こそ石勒唯一の勝ち目と言っても過言
ではないでしょう。
洛陽の石生が持ちこたえる限り、態勢上は「後の先」の主導権を石勒
は手にした形となります。あとは劉曜の出方待ちです。石勒の作戦実施
に当たり「摩擦(friction in war)」が最も小さくなるのは、劉曜が
現態勢を保持し続ける場合です。確信はありません、そもそも洛陽の
石生がいつまで保つのかも分からないでしょうし、劉曜を撃破するに
足る兵力が準備できたのかも不明です。それでも博打に打って出る石勒
の精神構造は病的と言ってもいいレベルの壊れっぷりだと思います。
全てが綱渡りな石勒劇場、しかし、往々にして勝利の女神というお方は
死地に自ら飛び込む大馬鹿野郎に微笑むことがあったりするのが、これ
また歴史の乙なところだったりするんですよ。
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1983
2013-06-15 23:46
Comments (1)
劉曜には戦闘で負った7つの傷があったはず。