はちがつのついったーあいこん
◆木々をつらぬく日射! じっとり湧き立つ湿気! 深みを増すシダの葉! アブラゼミ、ミンミンゼミ、クマゼミ、ツクツクボーシの交響曲(シンフォニー)! 梅雨前線はとうに北の彼方へ消え去り、紅葉山にもついにあの季節がやってきた。夏、真夏、猛暑の地獄! 全ての生命が最も活動的になる、とてつもなく偉大な夏の日に、アタシ田中匠は、鬼子さんちの縁側で溶けていたのであった。「アヂィ……」呼吸をするたび、床を這うような息が洩れる。こんなとき、風鈴はありがたい。涼しげな音が心に響いて、癒してくれる。いやあ、すばらしい発明をしてくれたもんだよ。そよ風一つない今日みたいな日にゃ、風鈴にぶら下がる短冊は1ミクロンも動きやしないんだから、本当にありがたい発明だ。アタシは息をした。「アヂィ……」 ◆こにぽんは庭でトンボを追いかけている。無邪気に虫取網をぶるんぶるん振るってる。なんかトンボらを叩き落さんとしているように見えるけど、なんかもう突っ込む気にもなれないくらい暑い。「アヂィ……」その脆弱な声は蝉の鳴声に劣る。アタシも寿命が近いんだろう。「もう、田中さんたら、暑いって言うから暑いんですよ。ほら、軽く動いて汗かいたほうが涼しくなれますって」「鬼子さんよぉ……それは風があればのお話ですぜ。こんな蒸し暑い日にわざわざ汗かいて湿度上げるとか、人生の難易度上げてるだけだっての」「んもう、そう言ってまただらける」 ◆鬼子さんの姿をちらと見る。正直あまり視界には入れたくない。いや、だって、季節に関わらずあの真赤の着物を着ているんだから、この季節は修造並に暑苦しくてしょうがない。鬼子さんは頭に白い手拭いを巻き、深緑の前掛けをしている。朝食で使った食器を台所へ片付けているところだった。なんというか、とても涼しげな背中をしている。と、ここでアタシは気付いた。「あ、その手ぬぐい! 濡らして頭に巻いてたんだな!」「あ、バレちゃいました?」「バレちゃいました? じゃないよ! なんだよ、アタシに教えてくれたっていいじゃんか! アタシのもちょうだいよ」「それくらい自分でやってください。手ぬぐいならそこの戸棚にあります」「え~……あづぅい」「またそんなこと言って。井戸水、ひんやりしてて冷たいですよ。ほら、朝のキュウリ、井戸水で冷やしたやつ、冷たかったでしょ?」「じゃあ井戸のなか浸かってたほうが……」鬼子さんが怪訝な顔をする。「冗談冗談。アタシも手ぬぐいやろっと」アタシは立ち上がって、戸棚を開けた。そこで手が止まる。「そうだ、浸かればいいんだ」 ◆「……井戸、入るんですか?」「いやいや、そうじゃなくてさ、ほら、アタシたち、海、行ったことなかったよね? この機会に行ってみようよ」「え、海、ですか!? でも今日は洗濯日和だし……」「えっ! うみ? うみいくの!?」庭でトンボをかっ飛ばしていたこにぽんが反応を示した。「こに、うみいきたいな! なみがざあざあいってて、すなはまがざっくざっくなんでしょ? こに、どーなっつのなかはいって、およぐのがゆめ!」こにぽんの目はキラキラしていた。「でもお洗濯が……ここしばらく忙しくてできなかったし、明日もいい天気とは限らないし……」「いいじゃん、洗濯はヤイカガシにでも任せれば」「それはパンツをお駄賃にしろってことですか?」「洗いたてのパンツなど、石ころほどの価値もないでヤンス!」藪から突如ヤイカガシが現れたが、一秒もしない間に鬼子さんの鬼斬によって萌え散らされてしまった。 ◆「ほら、まあ、こんなにこにぽんが行きたがってるワケだし、いいんじゃない、たまには。最近忙しかったんなら、その息抜きも兼ねて、さ?」「ううう……水着姿、ニガテなんですよ」「大丈夫。ちゃんと紅葉柄のビキニ買ってあるから。紅葉柄ならいつもと変わらないから平気でしょ?」「田中さん、私のことなんだと思ってるんですか……? というかこれ、サイズぴったりなのは、どういうことでしょうか?」「いやあ、ほら、マンガの資料集めてたら、なんか分かるようになっちゃって。職業病ってカンジ?」「うみ! なみ! すなはま! ねねさま、こにね、おすなでイヌヤマジョー作る!」「またまにあっくなお城をちょいすするわね……。わかったから、支度しましょ」「やったあ!」そんなわけで、海へ行くことになりました。 ◆続かない。
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2014-09-04 00:41
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