ソルキャろぐ5
ありがとう、ソウルキャッチャーズ。
だいたいときさかみねのTwitterログ(おおむね)です。
SOUL CATCHER(S)完走おめでとうございます!!!
とてもいい漫画でした。とてもね、いい漫画です。根本的に販促プレゼンがド不得手なのでうまく言えませんが、本当にいいお話に巡り合えたなと、私自身そう思っています。初めて単行本を開いたときの軽率さに感謝するとともに、力の限りその名を叫ぶしかなかった刻阪響のフルスロットルに神々の祝福があらんことを。未成年の主張からのお前には見えなかったか、果ては神峰はワシが育てた顔まで音速で登りつめていく彼に、瞳に星を入れた時点で何かがおかしいと気づくべきだったと土に両膝をつくような敗北感にまみれたことをまるで昨日のことのように覚えています。刻阪響とは唯一にして無二の真実であった…。彼のこのグイグイくる滅多にないテンションにさらされなければ、私はまだ敗北を知らない、平穏で、ゆとりのある生活を送っていたことでしょう。ですが今、その抽象的な平和を手に入れたいかと訊かれたら、もちろん首を横に振るしかすべがありません。何度泥沼を這いずり回ったっていい。血反吐を吐くようにまだ好きになってしまいたくなかったと夕日に向かって叫んだっていい。ずっとあたしを負かしてよ。これほんと最強の愛の言葉ですよね、全くもう吹越姉妹は。君に会えなかった私はもはや私ではないし、ソルキャを知らない山崎はもはや山崎たりえない。そんな思いです。神峰と刻阪が歓喜に至る話だという先生のお言葉を聞いて、当時音楽史もやわらかくはんでいた私としてはルイジ大師匠と叫んでハイリゲンシュタットの遺書を引き裂く思いでしたし、第九のよさに目覚めて繰り返し繰り返し聴いていたこともあって言葉にならない衝撃に打ちのめされたものです。懐かしいね。「私にはやらなければならない芸術がある」と言って戻ってきたベートーヴェンと同じように、神峰くんにはやらなければ生きていけない自己表現があって、そのマストが彼を前向かせ、押し出し、その踏み出した足を、今は自らの意思で進めているのだなと思うと、万感の思いに包まれます。苦悩から歓喜に至るという概念は、レとラではじまる交響曲だけでなく、あらゆる場面、2000年前にも等しく書かれたように、華々しく、豊かで、人類を明るく輝かせるシステムなのだなとしみじみ思います。そろそろ何の話をしているのか分からなくなってきました。
まあつまり、そんなふうに、きらきらした、一言でいうなら青春と呼ばれるものを、高校生たちが一生懸命、試行錯誤しながら、諦めたり、つまずいたりして、未来へ向かっていく、苦悩から歓喜に至る、そのありさまを、まるごとごっそり取り出してきて無邪気に差し出したような、このソウルキャッチャーズというお話が、私はすきですきでしかたがないということです。すべてうまくいったわけではなかった、すべて思いどおりになったわけでもなかった、それでも、大切にしたいものを大切にしたかっただけの、たった10代の、彼らの、涙も、笑顔も、憤りも、喜びも、一緒に楽しんで過ごせた時間は宝物ですし、他には代わらないソルキャのみんなが、私にとってはいつまでもきらめきを失わない宝石です。最後のページを閉じたときの、「さあ、未来をはじめよう!」と抜けるような青空のように思えた、あの空よりも高い気持ちを、たぶん簡単に忘れることはできないでしょうし、先生がおっしゃる通り、これからも、ソルキャは私の胸に生き続け、いらんことを考えては、笑ったり、顔を覆ったり、泥沼を這いずり回ったり、夕日に向かって好きだと叫んだり、そんなばかなことを繰り返していくでしょう。私はそれがとても楽しみですし、結局、私はそうにしかなれないだろうとも思っています。完結はとても淋しくて、切なくて、ときおり喪失感に貫かれては言葉を失うこともありますが、この微笑ましい敗北感が、初めて会ったときから今日まで、そしてこれからも、私を走らせるのだと思います。ソルキャfinale、おめでとうございます!ありがとう、お疲れさま、大好き!これからも末長くよろしくお願いします!
そして、そんな万感の思いでめくる11巻のラスト大トリが刻阪響はなはだしい刻阪響によるキラッキラしたドヤ顔サックス刻阪響でなんでだよを叫びながら反射的にその開脚へ分度器を押し当てるという行為で締めくくられたことは、棺桶に入るまで根に持ってようと思います。60度でした。
だいたいときさかみねのTwitterログ(おおむね)です。
SOUL CATCHER(S)完走おめでとうございます!!!
とてもいい漫画でした。とてもね、いい漫画です。根本的に販促プレゼンがド不得手なのでうまく言えませんが、本当にいいお話に巡り合えたなと、私自身そう思っています。初めて単行本を開いたときの軽率さに感謝するとともに、力の限りその名を叫ぶしかなかった刻阪響のフルスロットルに神々の祝福があらんことを。未成年の主張からのお前には見えなかったか、果ては神峰はワシが育てた顔まで音速で登りつめていく彼に、瞳に星を入れた時点で何かがおかしいと気づくべきだったと土に両膝をつくような敗北感にまみれたことをまるで昨日のことのように覚えています。刻阪響とは唯一にして無二の真実であった…。彼のこのグイグイくる滅多にないテンションにさらされなければ、私はまだ敗北を知らない、平穏で、ゆとりのある生活を送っていたことでしょう。ですが今、その抽象的な平和を手に入れたいかと訊かれたら、もちろん首を横に振るしかすべがありません。何度泥沼を這いずり回ったっていい。血反吐を吐くようにまだ好きになってしまいたくなかったと夕日に向かって叫んだっていい。ずっとあたしを負かしてよ。これほんと最強の愛の言葉ですよね、全くもう吹越姉妹は。君に会えなかった私はもはや私ではないし、ソルキャを知らない山崎はもはや山崎たりえない。そんな思いです。神峰と刻阪が歓喜に至る話だという先生のお言葉を聞いて、当時音楽史もやわらかくはんでいた私としてはルイジ大師匠と叫んでハイリゲンシュタットの遺書を引き裂く思いでしたし、第九のよさに目覚めて繰り返し繰り返し聴いていたこともあって言葉にならない衝撃に打ちのめされたものです。懐かしいね。「私にはやらなければならない芸術がある」と言って戻ってきたベートーヴェンと同じように、神峰くんにはやらなければ生きていけない自己表現があって、そのマストが彼を前向かせ、押し出し、その踏み出した足を、今は自らの意思で進めているのだなと思うと、万感の思いに包まれます。苦悩から歓喜に至るという概念は、レとラではじまる交響曲だけでなく、あらゆる場面、2000年前にも等しく書かれたように、華々しく、豊かで、人類を明るく輝かせるシステムなのだなとしみじみ思います。そろそろ何の話をしているのか分からなくなってきました。
まあつまり、そんなふうに、きらきらした、一言でいうなら青春と呼ばれるものを、高校生たちが一生懸命、試行錯誤しながら、諦めたり、つまずいたりして、未来へ向かっていく、苦悩から歓喜に至る、そのありさまを、まるごとごっそり取り出してきて無邪気に差し出したような、このソウルキャッチャーズというお話が、私はすきですきでしかたがないということです。すべてうまくいったわけではなかった、すべて思いどおりになったわけでもなかった、それでも、大切にしたいものを大切にしたかっただけの、たった10代の、彼らの、涙も、笑顔も、憤りも、喜びも、一緒に楽しんで過ごせた時間は宝物ですし、他には代わらないソルキャのみんなが、私にとってはいつまでもきらめきを失わない宝石です。最後のページを閉じたときの、「さあ、未来をはじめよう!」と抜けるような青空のように思えた、あの空よりも高い気持ちを、たぶん簡単に忘れることはできないでしょうし、先生がおっしゃる通り、これからも、ソルキャは私の胸に生き続け、いらんことを考えては、笑ったり、顔を覆ったり、泥沼を這いずり回ったり、夕日に向かって好きだと叫んだり、そんなばかなことを繰り返していくでしょう。私はそれがとても楽しみですし、結局、私はそうにしかなれないだろうとも思っています。完結はとても淋しくて、切なくて、ときおり喪失感に貫かれては言葉を失うこともありますが、この微笑ましい敗北感が、初めて会ったときから今日まで、そしてこれからも、私を走らせるのだと思います。ソルキャfinale、おめでとうございます!ありがとう、お疲れさま、大好き!これからも末長くよろしくお願いします!
そして、そんな万感の思いでめくる11巻のラスト大トリが刻阪響はなはだしい刻阪響によるキラッキラしたドヤ顔サックス刻阪響でなんでだよを叫びながら反射的にその開脚へ分度器を押し当てるという行為で締めくくられたことは、棺桶に入るまで根に持ってようと思います。60度でした。
99
101
4725
2016-03-06 23:19
Comments (2)
山崎さんの絵本当に大好きです。 山崎さんと同じ刻にソルキャを応援し楽しめて本当によかったです たくさんの素敵な作品ありがとうございました! よろしければこれからもよろしくお願いしますζ*'ヮ')ζ
View Replies