おんな城主直虎 その後の人々~井伊と品川伊氏~
品川伊氏は 井伊直虎の許嫁・井伊直親を殺害した黒幕と言われる今川氏真の子孫です。
今川氏真ーー早川殿(北条氏康の娘)
↓
品川高久➡品川高如➡品川伊氏
品川 伊氏(しながわ これうじ)は、江戸時代の高家旗本です。1500石。
寛文9年(1669年)、上総佐貫藩主松平重治の次男として生まれる。重治は品川高如の息子で松平家に養子に。
伊氏は父方の実家である高家旗本品川高如(祖父)の養子になった。
寛文11年(1671年)7月8日、養父(祖父)の死去により、3歳で家督を相続。
延宝4年(1676年)10月8日将軍徳川家綱に御目見する。
元禄元年(1688年)11月14日高家職に就任し、12月25日従五位下侍従に叙任、豊前守と称した。
元禄10年2月9日には、幸子女王の入内に際して本多忠国の副使として上洛。閏2月18日、従四位下に昇った。
忠臣蔵とも関係深い それが・・⤵
元禄14年(1701年)3月14日、浅野長矩と吉良義央の刃傷事件の際に現場に居合わせ、畠山義寧と共に義央を蘇鉄の間へ運んだ。
元禄14年(1701年)8月28日、伊氏は畠山基玄と同様の職務、すなわち高家肝煎を命じられる。
宝永5年(1708年)閏正月21日、松平頼豊とともに上洛、3月28日に従四位上に昇る。
また 因縁深い 井伊家と 職務をともにしたのが⤵
宝永6年(1709年)5月4日には徳川家宣への将軍宣下に際して井伊直通とともに上洛、7月1日に左少将に進んだ。
宝永7年(1710年)12月1日、上野国群馬郡内に500石を加増されて、合計1,500石となる。
正徳2年(1712年)9月22日死去、44歳
今川氏真ーー早川殿(北条氏康の娘)
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品川高久➡品川高如➡品川伊氏
品川 伊氏(しながわ これうじ)は、江戸時代の高家旗本です。1500石。
寛文9年(1669年)、上総佐貫藩主松平重治の次男として生まれる。重治は品川高如の息子で松平家に養子に。
伊氏は父方の実家である高家旗本品川高如(祖父)の養子になった。
寛文11年(1671年)7月8日、養父(祖父)の死去により、3歳で家督を相続。
延宝4年(1676年)10月8日将軍徳川家綱に御目見する。
元禄元年(1688年)11月14日高家職に就任し、12月25日従五位下侍従に叙任、豊前守と称した。
元禄10年2月9日には、幸子女王の入内に際して本多忠国の副使として上洛。閏2月18日、従四位下に昇った。
忠臣蔵とも関係深い それが・・⤵
元禄14年(1701年)3月14日、浅野長矩と吉良義央の刃傷事件の際に現場に居合わせ、畠山義寧と共に義央を蘇鉄の間へ運んだ。
元禄14年(1701年)8月28日、伊氏は畠山基玄と同様の職務、すなわち高家肝煎を命じられる。
宝永5年(1708年)閏正月21日、松平頼豊とともに上洛、3月28日に従四位上に昇る。
また 因縁深い 井伊家と 職務をともにしたのが⤵
宝永6年(1709年)5月4日には徳川家宣への将軍宣下に際して井伊直通とともに上洛、7月1日に左少将に進んだ。
宝永7年(1710年)12月1日、上野国群馬郡内に500石を加増されて、合計1,500石となる。
正徳2年(1712年)9月22日死去、44歳
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2017-01-15 22:00
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