守れるものには限りがあるから
お久しぶりです。
いろいろ環境が一気に変わって、ようやっと腰を落ち着けた今日この頃です。
歴史オタクを拗らせた春。
周りの楽しそうな雰囲気に「手を出したら一気に沈んでしまう!」と恐ろしくて一歩踏み出せなかった、とうらぶに、つま先つけたら飲み込まれてしまいした。
順番が、歴史オタ→とうらぶ なので、そういう作品が出来上がる様子です。
既に全刀剣年表と来歴一覧をまとめあげ、楽しく考察している日々であります。
いくつか小話ですがネタもあるので、のろのろと上げていきたいと思います。
(尚、歴史解釈にクセがあるのでそこの所は合わなければスルーするかソッと回れ右でお願いします。)
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(以下読まなくてもいい話)
箱館に始めて二口揃って出陣した際の回想を見て「彼は箱館に行けなかったんだ」と思いました。
箱館での戦況や彼の心境を目の当たりにしていたら、きっと「土方さんを死なせなくてすむかも!?」なんて夢でも言えないかったと思います。
土方さんの身の回りは江戸を離れてから、京を出た時以上に悪化していきます。
時の流れは止められず、刀を持った武士の時代は終わりを告げると、指揮をとるほどの人間は皆分かっていたではないでしょうか。
それでも自分の立場はもう引き返せないところまで来ていて
「なんならその意地張り通してやるよ!」
と死に場所を求め、北へ北へと進んだ戊辰戦争だったと思います。
だから堀川くんは箱館であのセリフが言えたし、兼さんは佐藤家に返された事に言い様のない哀しみが湧いたのだと想像しています。
さて、ではなぜ堀川くんの終わりを宇都宮に設定したか。
土方さんは筆まめだったそうですが、近藤さんはそれ以上にいろいろな事を書き留めては日野に送っていたそうです。
彼らの字を見ると、人柄が見えてくるようでいいですよね。
「堀川国広」が土方歳三さんの愛刀だったと言われるのは、その近藤さんの手紙に記された、たった4文字からです。
それ以外には影も形もありません。
では土方さんの脇差が堀川国広だったと仮定して、その行方は如何に?
と、考えるとこうなりました。
まず、折れたとした理由は
「刀が折れる事は不名誉である為、表に出ず人々の口にも自然と戸が建てられた」
としました。
もし箱館に行っていれば、箱館政府をつくっていた事ですし、頭の良い人が混ざっていたので武具の類は記録は残ったと考えます。
では次に、いつ折れたか。
①近藤さんと別れた後であること
が大前提でした。これは前述の通り。
②12代目兼定公の一振りが授けられている
私はこれを無視しては通れませんでした。
脇差は本来予備の刀として存在し、特に新選組は実戦集団だった為こぞって長めの脇差を愛用したと伝わります。
しかし刀の時代は終わろうという頃、いくら近藤さんが打首になり、新選組が身を捧げて会津と共に亡ぼうとしているとしても、なんだか不思議なタイミングだなぁと思っていました。
12代目の作として授けられるなら、12代目が刀鍛冶「和泉守兼定」を襲名したタイミングを考えて、この時しかないと考えます。
そして、12代目が現在日野に伝わる和泉守兼定、つまりこれは市村鉄之助さんによって箱館から持ち帰られた一口でしょう。
和泉守兼定以外にも土方さん愛用の刀は何振りかありますが、箱館まで行ったのは所在不明の11代目ではなかろうか、と思います。
つまり長い刀を二口とも箱館に持って行ってる事になります。他の者に運ばせたとも思いますが、いずれも会津中将からの授かり物と考えると自分で持っていた線が強そうです。
そうすると、この時点では脇差は無かったかもしれないな、と、そんな経緯でこんな話になりました。
ちなみに、ゲーム上の兼さんはだんだらの羽織を着ている事から、事実上新選組が解体された後の12代目とは考えにくいです(勝手に)
彼は彼なりに大混乱しながら、土方さんの意思を強く受け継いで、日野に戻ったのだろうとぼんやり考えています。
お粗末お粗末
いろいろ環境が一気に変わって、ようやっと腰を落ち着けた今日この頃です。
歴史オタクを拗らせた春。
周りの楽しそうな雰囲気に「手を出したら一気に沈んでしまう!」と恐ろしくて一歩踏み出せなかった、とうらぶに、つま先つけたら飲み込まれてしまいした。
順番が、歴史オタ→とうらぶ なので、そういう作品が出来上がる様子です。
既に全刀剣年表と来歴一覧をまとめあげ、楽しく考察している日々であります。
いくつか小話ですがネタもあるので、のろのろと上げていきたいと思います。
(尚、歴史解釈にクセがあるのでそこの所は合わなければスルーするかソッと回れ右でお願いします。)
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(以下読まなくてもいい話)
箱館に始めて二口揃って出陣した際の回想を見て「彼は箱館に行けなかったんだ」と思いました。
箱館での戦況や彼の心境を目の当たりにしていたら、きっと「土方さんを死なせなくてすむかも!?」なんて夢でも言えないかったと思います。
土方さんの身の回りは江戸を離れてから、京を出た時以上に悪化していきます。
時の流れは止められず、刀を持った武士の時代は終わりを告げると、指揮をとるほどの人間は皆分かっていたではないでしょうか。
それでも自分の立場はもう引き返せないところまで来ていて
「なんならその意地張り通してやるよ!」
と死に場所を求め、北へ北へと進んだ戊辰戦争だったと思います。
だから堀川くんは箱館であのセリフが言えたし、兼さんは佐藤家に返された事に言い様のない哀しみが湧いたのだと想像しています。
さて、ではなぜ堀川くんの終わりを宇都宮に設定したか。
土方さんは筆まめだったそうですが、近藤さんはそれ以上にいろいろな事を書き留めては日野に送っていたそうです。
彼らの字を見ると、人柄が見えてくるようでいいですよね。
「堀川国広」が土方歳三さんの愛刀だったと言われるのは、その近藤さんの手紙に記された、たった4文字からです。
それ以外には影も形もありません。
では土方さんの脇差が堀川国広だったと仮定して、その行方は如何に?
と、考えるとこうなりました。
まず、折れたとした理由は
「刀が折れる事は不名誉である為、表に出ず人々の口にも自然と戸が建てられた」
としました。
もし箱館に行っていれば、箱館政府をつくっていた事ですし、頭の良い人が混ざっていたので武具の類は記録は残ったと考えます。
では次に、いつ折れたか。
①近藤さんと別れた後であること
が大前提でした。これは前述の通り。
②12代目兼定公の一振りが授けられている
私はこれを無視しては通れませんでした。
脇差は本来予備の刀として存在し、特に新選組は実戦集団だった為こぞって長めの脇差を愛用したと伝わります。
しかし刀の時代は終わろうという頃、いくら近藤さんが打首になり、新選組が身を捧げて会津と共に亡ぼうとしているとしても、なんだか不思議なタイミングだなぁと思っていました。
12代目の作として授けられるなら、12代目が刀鍛冶「和泉守兼定」を襲名したタイミングを考えて、この時しかないと考えます。
そして、12代目が現在日野に伝わる和泉守兼定、つまりこれは市村鉄之助さんによって箱館から持ち帰られた一口でしょう。
和泉守兼定以外にも土方さん愛用の刀は何振りかありますが、箱館まで行ったのは所在不明の11代目ではなかろうか、と思います。
つまり長い刀を二口とも箱館に持って行ってる事になります。他の者に運ばせたとも思いますが、いずれも会津中将からの授かり物と考えると自分で持っていた線が強そうです。
そうすると、この時点では脇差は無かったかもしれないな、と、そんな経緯でこんな話になりました。
ちなみに、ゲーム上の兼さんはだんだらの羽織を着ている事から、事実上新選組が解体された後の12代目とは考えにくいです(勝手に)
彼は彼なりに大混乱しながら、土方さんの意思を強く受け継いで、日野に戻ったのだろうとぼんやり考えています。
お粗末お粗末
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2018-12-09 01:41
Comments (2)
ピクシブでまとめて読めたのが本当に嬉しいです。また考察も大変興味深く読ませていただきました。見落としていたポイントがパっと見えて、今なるほど…と唸っています。(「土方さんを死なせなくて~」の台詞は私もちょっと引っかかってました)お話を読みながら私も考えていきたいです。
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