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心を宿した石板

リゼリア姫は、魔王アグラディオの玉座の間に立たされていた。
腕は縛られず、足も自由。だが動けなかった。
背筋が、意志とは関係なく凍りついている。空間そのものが重すぎる。

「お前のような者が“姫”を名乗るなど――甘い夢だ。
 ならば、お前の“姿”から壊すまでだ。」

アグラディオが、漆黒の法杖を一閃した。
次の瞬間、空気が変わる。

皮膚が硬化する。

リゼリアの頬が、指先が、まず灰色に変色していく。
そこには痛みも痺れもなかった。ただ、感覚が抜け落ちていく静かな恐怖だけが残った。

「まずは肉体から。
 柔らかさも、血の流れも、すべて無用。」

関節が固まり、脚が動かなくなる。
肩のあたりでゴリリという音がした。
骨が、形状を保てず、角張った“岩の芯”に変質している。

リゼリアは息を吸おうとした――が、できなかった。
呼吸という概念そのものが、削ぎ落とされていく。

「美しさもいらぬ。意思もいらぬ。
 必要なのは、恐れられる形、壊すための力。」

次に、顔に異変が現れた。

鏡はない。だがわかる。
頬が引きつり、唇が裂け、目が縦に伸びていく。

表情が“怒り”へと固定されていく。
その筋肉は自分のもののはずなのに、“別の誰かの怒り”に塗り替えられていく。

「その表情は私が選んだ。
 お前が怒っているのではない――怒らされているのだ。」

目の奥が燃えるように熱くなる。
視界に赤いフィルターがかかった。
光を通す目ではなく、“反応するセンサー”へと変化した視覚器官。

背中が重くなる。
魔王の呪文印が刻まれていく感覚――文字で構成された“牢獄”が背に浮かび上がる。

「今、背に刻んだのは運命そのもの。
 お前の意思がこれを越えることは、もうない。」

肩に棘が生える。
腕は石と化し、融け、四角いフレームに統合されていく。
服も髪も崩れ、ただの石材の一部と化す。

ついに、脚が消えた。
代わりに、巨大な一枚岩の下辺が床に接し――そして、切り離され、浮き上がった。

リゼリアはもう立っていない。
浮いている。

自らではなく、魔力で吊り上げられたただの塊として。

最後に、胸の奥にあった白い魔力の核が、黒紫の呪印で覆われた。

「心は捨てぬぞ。
 残しておく――そのほうが、お前には“効果的”だからな。」

言葉の届かない場所で、コアが脈打つ。

そのとき、リゼリア姫だったものは、完全に沈黙した。

天井近くに静止する、四角い怒りの石板。
誰もがただの魔道具と見なすその存在の中で、
心だけが今も、“叫ばない悲鳴”を上げつづけている。

「……お前は、今、何だ?」

魔王アグラディオの声が響く。
それはまるで、答えを知っていて、愉しげに問いかける教師のようだった。

リゼリアは答えようとした。
けれど声が出ない。

否、そもそも喉がない。

彼女の視界は、高所からの俯瞰になっていた。
足元など存在せず、眼下に床と、魔王の黒衣が見えた。

体を動かそうとする。――動かない。
目を閉じようとする。――閉じられない。
息を吸おうとする。――その感覚が、もうどこにもない。

浮かんでいる。
四角くて、冷たくて、重たい。
けれど重さの感覚も、皮膚の感触もない。
自分がどこまでを“自分”と呼べばいいのか、わからない。

「鏡を見せてやろう」

魔王が杖を振ると、前方に水鏡が浮かんだ。
そこに映ったのは――

怒りに歪んだ岩の顔。
赤く光る目。
棘の縁取り。
背中には禍々しい封印の紋様が刻まれている。

それは、魔道具。
罠として設置される、ただの石板。
見覚えは――ない。
けれど、

「……目が……私の……っ」

目だ。
あの怒りの仮面の目元だけが、微かにリゼリア自身の面影を残していた。

まつげの流れ、眼窩の浅さ、形。
知っている。毎朝鏡で見ていた。
だが今は、怒りを貼り付けられた“偽りの表情”に取り込まれていた。

「やめて……ちがう、こんなの、わたしじゃ……っ」

心は叫ぶ。
でも、どこにも伝わらない。

その瞬間、感知魔術が起動した。

床を歩く魔族の兵士が、誤って姫の下に入る。
――止まれ、という意志は確かに発せられた。

けれど、体はそれを拒否した。

ズドン――!!!!

石板が落下する。
彼女の意志とは無関係に、まるで命令に忠実な機械のように。

砕けた床。倒れ伏す兵。
そして――また、ゆっくりと浮かび上がる自分の体。

「よくできたな。お前は立派に、“私の道具”だ。」

アグラディオが楽しげに笑う。
それは、彼女の否定が“完成度の証明”であるかのように。

リゼリアは、心の中で何度も叫ぶ。

「いやだ。やめて。誰か……助けて……こんなのは私じゃない、私じゃ……」

でも、体はもう迷わなかった。
また誰かが入れば、同じように落ちるだろう。

「拒むか? だがその拒絶ですら、お前には“形”にできない」

リゼリアは、石になった。
表情も、声も、手足も、自分で選べない。
それでも心は、まだ彼女のままだった。

だからこそ、絶望は終わらない。

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2025-06-15 06:32

 マクサ


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