プルツスクの戦い①行軍図
1702年クリシュフの戦いで敗退したアウグスト2世は、しかしカール12世の落馬事故による負傷を奇貨として、支持者を集めるとサンドミェシュ連盟を結成し軍の再建を目指した。手酷い敗北を喫したとはいえ、多くの将兵は未だ健在であり、ザクセン軍は1702年の秋から冬にかけて急速に兵力を回復させワルシャワ北西、要塞都市トルニに結集した。一方スウェーデン軍はカール12世の傷が癒えると1702年の秋から1703年初頭にかけてゆっくりと北上し、ルボミルスキー率いるポーランド王国領軍がザクセン軍に合流しないことを見届けるとワルシャワに向かい、1703年3月、ワルシャワ近郊プラガに拠点を構えた。党派工作と軍事活動は年が明けるとさらに活発化した。ザクセン軍総司令官陸軍元帥ステイナウ伯は、1703年2月ヴィシニョヴィエツキ率いるリトアニア軍とバルト海沿岸地域への侵攻を加速させていたロシア軍との連携を考え、歩兵をトルニに残し、8個騎兵連隊を率いてブク河へと進出した。ステイナウ伯の騎兵は良く訓練されており、彼らはその機動力を生かし、スウェーデン軍分遣隊に対して脅威を与え続けた。カールはレーンスケルド中将に一軍を預けるとこれを先行させ、トルニのザクセン軍とステイナウの騎兵軍の動向を探った。切望していた情報はレーンスケルドが派遣していた偵察隊からもたらされた。ステイナウの騎兵軍が今まさにブク河の支流であるナレフ河の畔にあるプルツクにいることが知らされた。カールはヴィスワ河とブク河の合流点で渡河をすれば、プルツクへ西から接近でき、敵はナレフ河を背後にして逃げ場を失うことになると考えて直ちに行動を開始した。4月18日午前4時、カール12世はプラガを発つとノヴォドヴォルの渡河点に歩兵隊を残し4月20日、近衛騎兵連隊、スモーランド騎兵連隊、北スコーネ騎兵連隊、バッチワルト竜騎兵隊を率いてプルツスクに向かった。一昼夜に及ぶ急速行の末、まだ夜も明けぬ21日3時半にカール12世と騎兵隊はプルツスクの街を見下ろす丘に到着した。前哨からの報告でスウェーデン軍の接近に気づいていたステイナウは、しかし敵軍の規模は大きくないと考えていた。彼は部隊を戦闘隊形にして、街の西にある丘に整列させ、警戒を密にさせた。また隣村に配置していた部隊にも、直ちに合流するように命令を与えた。しかし今やすべては遅すぎた。
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2011-03-03 00:06
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