ホットスパーのパーシー(ヘンリー・パーシー)
妹から「剣とニーハイブーツの手抜き感ひでぇ」って突っ込まれたので近いうちに描きたして再うpしようと思ってるよ!~以下人物説明~
北部の大貴族ノーザンバーランド伯ヘンリー・パーシーの嫡男として1364~1366年ごろに生まれた。綽名の「ホットスパー(Hotspur)」は直訳すると「熱い拍車」。拍車は騎士の象徴であるので、意訳すれば「熱血騎士」といったところ。後世になると「性急・むこうみず」の意味をもつようになる。イングランド王リチャード2世によって13歳ごろ騎士叙任され、従軍経験を重ねる。1379年ごろにエリザベス・モーティマーと結婚、3子をもうける。そんな中でリチャード2世がパーシー家の領有する辺境伯領を寵臣に授与するなどしたために父ノーザンバーランド伯と嫡男ヘンリー・パーシーは国王に対する反感を強め、1399年のヘリフォード公ヘンリーによる王位簒奪に至りパーシー家は国王リチャード2世を見捨て、ヘリフォード公の味方につく。しかし国王ヘンリー4世の統治下でパーシー家は期待していた恩賞を得ることができず、特にヘンリー・パーシーがヘンリー4世への反感を抱くようになる。パーシー家は「リチャード2世の廃位に進んで同意したわけではない」と意見を翻し、1403年にヘンリー・パーシーは故リチャード2世が王位相続人としていたモーティマー家の縁を頼って叛乱(Hotspur's Rebellion)を起こす。しかし叛乱軍はウェールズに程近いシュルーズベリーで敗北。ヘンリー・パーシーも混戦の中で暑さに耐えかねてバイザーを開けたところ、口に流れ矢が飛び込んできて即死した。ていうか叛乱軍の敗北はヘンリー・パーシーがうっかり陣没しちゃったことによる総崩れが原因。未亡人となったエリザベス・モーティマーは夫ヘンリー・パーシーの陣没したその年に速攻で再婚した。きっとアレだよ、遺言とかで「おまえはまだ若いんだからもし俺が死んだときはとっとと再婚しる!」みたいにいわれてたんだよ…!え、プリンス・オブ・ウェールズのハル王子との一騎打ち?なんのことですか?
北部の大貴族ノーザンバーランド伯ヘンリー・パーシーの嫡男として1364~1366年ごろに生まれた。綽名の「ホットスパー(Hotspur)」は直訳すると「熱い拍車」。拍車は騎士の象徴であるので、意訳すれば「熱血騎士」といったところ。後世になると「性急・むこうみず」の意味をもつようになる。イングランド王リチャード2世によって13歳ごろ騎士叙任され、従軍経験を重ねる。1379年ごろにエリザベス・モーティマーと結婚、3子をもうける。そんな中でリチャード2世がパーシー家の領有する辺境伯領を寵臣に授与するなどしたために父ノーザンバーランド伯と嫡男ヘンリー・パーシーは国王に対する反感を強め、1399年のヘリフォード公ヘンリーによる王位簒奪に至りパーシー家は国王リチャード2世を見捨て、ヘリフォード公の味方につく。しかし国王ヘンリー4世の統治下でパーシー家は期待していた恩賞を得ることができず、特にヘンリー・パーシーがヘンリー4世への反感を抱くようになる。パーシー家は「リチャード2世の廃位に進んで同意したわけではない」と意見を翻し、1403年にヘンリー・パーシーは故リチャード2世が王位相続人としていたモーティマー家の縁を頼って叛乱(Hotspur's Rebellion)を起こす。しかし叛乱軍はウェールズに程近いシュルーズベリーで敗北。ヘンリー・パーシーも混戦の中で暑さに耐えかねてバイザーを開けたところ、口に流れ矢が飛び込んできて即死した。ていうか叛乱軍の敗北はヘンリー・パーシーがうっかり陣没しちゃったことによる総崩れが原因。未亡人となったエリザベス・モーティマーは夫ヘンリー・パーシーの陣没したその年に速攻で再婚した。きっとアレだよ、遺言とかで「おまえはまだ若いんだからもし俺が死んだときはとっとと再婚しる!」みたいにいわれてたんだよ…!え、プリンス・オブ・ウェールズのハル王子との一騎打ち?なんのことですか?
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2011-07-04 16:15
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