【屠伯】 石勒寇河朔 其二 【苟晞】
永嘉元年(307年)七月、陽平において汲桑・石勒の賊軍は苟晞・東海王司馬越の連合軍に敗北を喫します。勢力は瓦解、逃亡した汲桑は乞活集団に討ち取られ、石勒も際どいところで何とか匈奴単于劉淵の許に亡命という致命的敗戦でした。
「屠伯(嗜虐諸侯)」の異名をとる苟晞は、西晋朝廷の最強のカードであり、その後も石勒らの前に難敵として立ちふさがりつづけます。しかしながら、この敗戦こそが驚異の復讐達成率を誇ることになる石勒の屈辱と栄光の第一歩になるのでした。
後ろの変な塊は「京観」というもので、敵兵の遺体で作る戦勝モニュメントみたいなものです。苟晞は京観を作りまくったことと苛烈な政治により「屠伯」と称されるようになったそうです。正直、友達になりたくないタイプです。
「屠伯(嗜虐諸侯)」の異名をとる苟晞は、西晋朝廷の最強のカードであり、その後も石勒らの前に難敵として立ちふさがりつづけます。しかしながら、この敗戦こそが驚異の復讐達成率を誇ることになる石勒の屈辱と栄光の第一歩になるのでした。
後ろの変な塊は「京観」というもので、敵兵の遺体で作る戦勝モニュメントみたいなものです。苟晞は京観を作りまくったことと苛烈な政治により「屠伯」と称されるようになったそうです。正直、友達になりたくないタイプです。
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2011-09-03 12:09
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