其果志の児

 其果志の児 読み方は「そのはてしのじ」です。
 当方、掛け軸等の日本画美術品制作に携わる職業絵師、手描きの看板絵師、フリーのイラストレーター等の経験を有しますが、ここに示す作品は全て完全な個人的オリジナル作品となります。当面の予定ですが、ここに示す絵画作品は特に断り書きが無ければ全て手描きのアナログ作品であり、特別なデジタル加工は施していません。 
 私の「表現」の特徴としては、「ヴィジュアル的イメージ」としての「絵画作品」は自身の「哲学的思想」をバックボーンとしたものが多く、あるいはもう一方で、自身の「思索的表現」としての「エッセイ」は自身の「絵描きとしての感性」をバックボーンとしたものが多く、故に自身の「表現」は「画家」とか「思想家」とかいった従来の既成概念的カテゴリーに縛られることなく、「言葉」と「映像的イメージ」でもって「対」をなしているということです。 哲学的思想に至る「哲学的思索」は「膨大な言葉」によって成り立ちますが、この「膨大な言葉」と、「美」という「言葉の果てとしてのイメージ」を結び付けて提示することで、そこに「言葉以降」の境地が「絶対的な意味」を成して我々の前に示されます。 「人間以前」のあらゆる生物達が「言葉以前」なら、「人間」は「言葉」です。 「言葉」は「相対的なもの」であり、されば「人間」とは「相対性そのもの」です。が、また同時に、人間は「美という絶対」も「知って」います。「人間だけ」が、「絶対性という事柄」を「知り得て」いるのです。 これをもって人間は「言葉以降」の「芸術」を成します。ですがまた同時に、その芸術の手段として人間だけがなしうる「絵画」や「音楽」といった「言葉ならざる表現」も、必ずしも常に「言葉以降」としてありうる訳では勿論なくて、実際にはむしろより多くの場合において、「言葉の次元そのもの」に留まっていたり、あるいは「言葉以前的」でもありうる訳です。 では一体何がそうした「表現」をして「言葉以前的」と「言葉以降的」の差異を生じさせてありうるのか?…思うにそれは「美」です。「美」を成し得た表現こそが「芸術」となり得、そこに「言葉の果て」、「言葉の向こう側」が示される。果たしてそれは我々人類が求め続け目指し続けている「歴史の果て」…時間性という相対性の終わるところ…我々「生命」の「目的地」にして「到達点」でしょう。 こうしたところを我々自身が「改めて理解する」とき、我々自身が「言葉以降の存在」となりうる。 逆に言えばこうした点を我々自身が今まで通り理解し得ないままでいるなら、「芸術」はいつまでも「訳のわからぬ無用の長物」のままにどこまでも単なる「幻想」、「ファンタジー」のままに真のその「意味」を知られ得ないでしょう。「意味」を正しく知られていないということは、その「価値」もまた真に正当には知られ得ていないということです。 そうしてpixivというこの現在のイメージ掲示サイトに如実に示されているように、「イラスト」も「アート」もあらゆる表現は「ファンタジー」として一括されて示され、扱われ、表現者もその受け手も、そのスタイルこそが一般的となる…。 勿論、「ファンタジー」という事柄にもそれはそれで重要な価値があり、私はそれ自体を軽視するものでは全くありませんが、世に「アート」と言われる「表現」一般が「ファンタジー」というところに一括りにされ、「美」や「表現」といった事柄に対する我々自身の理解がそこに行き詰まり閉塞しているこの現状を、私は良しとしないのです。 我々は更に理解を深め、「成長」せねばならない…。 「人間以前」にして「言葉以前」のあらゆる生命体達は「絶対」の境地に生きている。だが聖書に言われるように我々人間は「言葉」という「相対性」を得たことによってその絶対の境地を追放された…。だがまたそこに同時に我々は、自らが失った「絶対」の境地を「改めて知る」こととなる。果たしてそれが「失われた楽園」として「幻想」と同義となった「ファンタジーとしての美」なのでしょうが、そうであれば我々はその「美という絶対」をファンタジーとしてでなく「真実」として掴み取りそこに到達することが出来たとき、「言葉以降の絶対」の境地に到達しうるのではないでしょうか? そうしておそらくその地点こそが、我々「生命」が始めから目指していた「目的地」でしょう。この「目的地」を目指しておればこそ、「生命」は「時間」の中を歩み続け「進化」し「成長」し続けているのです。それは、「意識」としての生命自身の「自己認識による自己実現」の道なのだと思われます。そして生命自身は初めから、自身を「美」としてこそ認識したがり「美」としてこそ実現したがっているのです。 されば、この地球における生命の歩みの「先達」に立つ「我々人類」は、尚「美」に向かってこそ成長せねばなりません。 「ファンタジー」の内に遊び続けそこに「逃避」し続けるばかりのこの現状から一歩踏み出し、我々がその「美というファンタジー」を夢想し得、知り得てありうる、その「意味」を、「改めて理解する」こと…それが出来たとき、おそらく人類は今日の我々とは別の存在と成り得ているでしょう。
 「ヴィジュアルイメージ」としての「絵画表現」と、「言葉」による「思索的表現」としての「文筆表現」…この二つの表現手法を「左右の両輪」として対にして、「今現在の我々自身」がそうであるところの「相対的な言葉の次元」を乗り越えてゆくことを模索する。 換言すれば、「ファンタジーとしての美」を遥かに見据えながら「言葉」という「普遍的な現実性」でもって彼の境地へと「架け橋」する…。「導き手」は「美」であり、そこへと通ずる「橋」は「言葉」です。そうしておそらくそれは結局、膨大な言葉をもって「言葉の次元そのもの」を乗り越えてゆく営為であろうと思われます。 「人間」とは「言葉そのもの」であると言い得ようと思われ、「歴史」とは即ち「膨大な思索」、「膨大な言葉」であるとも言い得ましょう。されば我々自身がその膨大な言葉で「言葉そのものの次元」を乗り越えてゆこうと模索するとき、それは我々自身の、人類自身の「自己超克」の可能性を孕んであり得ましょう。 そうして私はその活動こそ、現在の人類、我々自身の未来の為に、必要と考えます。 ここでは「イラスト」と「小説」の投稿欄を使って少しづつそれを示していければと考えています。

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