浅井信光

名古屋市立振甫中学3年から愛知県立旭丘高校1年にかけてNHK総合放送ドラマ「中学生日記」初代レギュラー出演。共演者には元衆議院議員の横光克彦、女優の戸田恵子、作家の花井愛子がいる。

1977年、南山大学外国語学部英米科入学後、1978年、ロックバンド「ファイアー」のボーカルとして、ワーナーミュージックからデビュー。シングル3枚をリリース。デビュー曲「こっちを向いて」の作詞・作曲は河島英五。オリコン51位。TBSテレビ「ぎんざNOW!」レギュラー出演。エメロンシャンプーCF出演。全国で年間50本以上のコンサートを行う。1979年、同バンド解散後、同大学を中退。

1981年、音響芸術専門学校卒業後、株式会社サウンズ・マーケッティング・システム(SMSレコード)入社。邦楽制作宣伝では「プリズム」「AUTO-MOD」等を担当。洋楽制作宣伝ではWAVEレーベルで「アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン」「レジデンツ」等を担当。女優の野村真美(後に「渡る世間は鬼ばかり」レギュラー出演)を発掘。

1987年、渡辺プロダクショングループ内異動で渡辺音楽出版株式会社に入社。新人アイドル「麻田華子」を担当。デビューシングル「好き☆嫌い」がオリコン12位を獲得。

1988年、BMGビクター株式会社入社。邦楽制作ディレクターとして「B'z」を担当。デビューアルバム「B'z」から6thアルバム「RISKY」まですべてミリオンセールスを記録。「太陽のKomachi Angel」などオリコンナンバー1シングル3枚。トータルセールスは1,000万枚を超す。
オリコン年間ディレクターチャートで、1990年シングル部門で2位、1991年アルバム部門で2位を獲得。

他に、「NORMA JEAN」(シングル「GET A CHANCE!」オリコン9位獲得)、「GO-BANG'S」シングル「ちょっとだけハイカラ」オリコン73位)、「MATAHARI」(シングル「Spy Game」オリコン年間ディスコチャート2位獲得)、「林田健司」(「SMAP」へ「$10」「青いイナズマ」他の楽曲を提供)等を担当後、映像ソフト部へ異動。

プロダクトマネージャーとして担当した全国劇場公開洋画「不滅の恋/ベートーヴェン」のビデオがレンタル2万本のヒット。メジャーデビュー前に担当した「SHAZNA」のビデオがインディーズとしては初のオリコン1位を獲得。

邦楽制作復帰後、制作課長代理として日本テレビ「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」とのプロジェクト「ブラックビスケッツ」を担当。1stシングル「スタミナ」が100万枚、2ndシングル「タイミング」が200万枚のミリオンヒットとなる。アルバム「LIFE」は50万枚の大ヒット。オリコントップ3シングル4枚。台湾で発売したシングル「スタミナ」が日本発のアーティストとしては初の2位を獲得。「ポケットビスケッツ」とNHK紅白歌合戦出場。「ビビアン・スー」ソロアルバム日台共同制作。

RCAアリオラジャパン設立後、制作部次長として「角松敏生」「シャ乱Q」「福山雅治」等に関わり、「B'z」のサードベストアルバム「B'z The Mixture」を200万枚セールス。

浅井ルーム設立後、チーフ・プロデューサーとして「DEEN」でオリコントップ10アルバム2枚。「キンモクセイ」でオリコントップ10シングルとオリコントップ10アルバム及びNHK紅白歌合戦出場。2001年、同社を早期退職。

2002年、株式会社アットマークの音楽事業部長としてヘッドハントされるが苦難の道を歩む。しかし、その間にもBMG時代にモバイルデビューを手掛けた「Soul'd Out」(ソニー・ミュージック)のアルバムがオリコン3位を獲得。同じくCDデビューを手掛けた「AI」(ユニバーサルミュージック)のアルバムがオリコン3位を獲得。
2004年、日本コロムビア株式会社にてエグゼクティブ・プロデューサーとして携帯音楽配信サイト「モバコロ」の立ち上げに寄与する。

2004年、株式会社エムティーアイ入社。コンテンツ獲得営業部長として、着うたサイト「music.jp」の会員150万人純増に大きく貢献。「CDでミリオン、配信でもミリオン」という非常に難易度の高い目標を達成する。
2006年、同社子会社フィル代表取締役社長に就任。

現在は、エンタテインメント科学研究所代表を務めている。

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