261年”最も傑出した敬虔なる女王”

如何なる国にも、如何なる都市にも輝ける時代がある。我がパルミラもその例外ではない。かの時代、オダエナトゥス様とゼノビア様が轡を並べ、その敵を討ち滅ぼせし栄光に満ちた時代。永劫にも等しきローマの歴史に比ぶれば、如何にささやかな時であろうと、その結果が如何に儚きものであろうと誰がその眩さを覆す事が出来よう。歴史は勝者が記せど、我等が打ち立てし不滅の栄誉は、水に穿たれる事無く、風に梳らるる事無く、地に人が満つる限り永久に語り継がれるであろう。これよりその顛末を語らん…――パルミラ年代記、三巻第四章25節――そんな書物があるか知りませんが。3世紀後半、皇帝の暗殺に内乱が重なりローマ帝国が混沌の渦に落ちていた頃、シリアの通商都市パルミラはペルシアとローマの最前線にありました。その危機的情勢下で帝国東部の防衛に尽力し、ガリエヌス帝の信頼を得たパルミラのセプティミウス・オダエナトゥスは東方属州全域の司令官に任命されました。そして彼の妻こそが、かのギボンがオリエント屈指の女傑と評したゼノビアでした。ゼノビアはその美貌で名高いばかりか、哲学者ロンギヌスに師事し、ラテン語・ギリシア語を筆頭に地中海世界の数ヶ国語に精通し、哲学、歴史などの教養も備えたまさに才色兼備の体現者でした。ゼノビアはオダエナトゥスによる僭称帝討伐やペルシア攻撃にも参戦し、その知識や知恵によって夫を補佐しただけでなく、弓馬を操り、軍装で兵士達を指揮し、ときに鼓舞したのだとか。267年にオダエナトゥスが暗殺された後は息子を後継者に据え、268年にガリエヌス帝が暗殺され、帝国がさらなる混乱に陥ると、とうとう彼女の野望が明らかとなりました。ゼノビアは東方防衛を名目にカッパドキア、エジプト方面を次々に征服し、パルミラは名実ともに王国となったのです。しかし栄華は久しからず、272年、ローマ皇帝アウレリアヌスが親征に立ち上がり、降伏勧告を退けたパルミラに迫りました。ゼノビアは自ら陣頭に立ち徹底抗戦の構えを見せるも、のちに三分した帝国を統一した事で元老院から”世界の修復者”の称号を受けたアウレリアヌス帝の相手は荷が重く敗戦を重ね捕縛、地位と権限を剥奪されローマへ連行。以後はそれなりに豊かな隠遁生活を送ったそうです。なかなかしぶとい。――次回、ローマ帝国興亡記、第274話”世界の修復者”帝国の歴史がまた1ページ。

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2011-01-05 09:06

 Legionarius


Comments (18)

Legionarius 2011-01-06 22:58

Jinさん おめでとうございます。3世紀の危機、目下もう一枚この時代を描こうと画策しております。カタフラクトは萌え萌えかつ燃えですね。

jin 2011-01-06 20:53

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。この時代はまさに激動の時代ですよね。カタフラクト萌え!

Legionarius 2011-01-06 12:31

bfapoさん ありがとうございます。気付いたらこういうのしか描けなくなっておりました。

Legionarius 2011-01-06 12:22

國光さん この手のカタフラクトはアルサケス朝パルティアの頃には既にオリエントを中心に活躍していたようです。対するローマはまきびしを撒いて突撃を鈍らせたのだそうで。

bfapo 2011-01-06 05:19

すばらしい。 パルミラに目を向けるとは。 絵柄も歴史観がありGOOD

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