ローマ軍の物語 Ⅷ “サトゥルヌスの恵み”
隊長曰く、補給は戦いの成否において最も重要な要素の一つだそうだ。“平時ならば”軍団の補給網は限りなく完璧に機能する。友好的な方法であろうと、そうでなかろうと、軍団の補給担当が“あらゆる手段”を用いて必ず物資を確保するからだ。
とはいえ連中をあまり信頼しすぎるのは止めた方がいい。軍団の御用商人から平気で賄賂を取り、どうしようもない備品を腐るほど納入したり、必要以上に仕入れた物資を横流しして私腹を肥やす奴など珍しくもない。バレたらそいつが罰されるかと言えばそんな事は滅多に無い。
指揮し、監査する人間にも利益が供与されている限り、何もかも無かったことにされる。麗しき互恵関係と言う奴だ。もし向こう見ずな正義感に駆られた奴が余計な口出しをすれば、そいつは朝日を拝む前に“早過ぎる名誉除隊”や“経緯の明白な神隠し”を迎える事だってありうる。軍団で長生きしたければ、何を見ても口にするべきか否か良く考えてからの方が良いようだ。
そう、飯の話だ。贅沢な話だが毎日の豆スープと麦粥に飽きる事もある。それから保存のきく焼きしめたパン、魚の燻製、玉葱にチーズ、不味くはないが変化に乏しい。長距離行軍訓練が終わるまで、基地に帰り着くまでは仕方のない事だが、皆そう思っているのは明らかだ。古参の連中はどうにかして多少なりとも食に彩りを添えているらしいが、新兵の俺達には魔術でも使っている様にしか思えなかった。
ある日の夕餉の時間、クイントゥスがおもむろにピルムや枝の先に何かを付き刺し、鍋の横で炙り始めた。いい匂い、そしてとても危険な匂いがした。
鶏と魚だ。鶏はともかく内陸部で魚とは…魔術師殿は随分と身近にいたらしい。おまけに俺の友人は料理人でもあったらしい、どこに隠していたのかガルムと香辛料を使った特製のソースを丹念に塗り始めた。我等が魔術的料理人、俺達の“アピキウス”は訓練中にも見られない真剣そのものの顔で色艶を確かめ、焼き加減に満足すると呆気にとられる俺達を尻目にそいつを手早く切り分け、順番に皆の皿に放り込み始めた。
何という事だ!ローマ建国以来、これほど気前の良い男がいただろうか。俺は奴が政界に出馬するなら永遠に支持してやろうと心に誓った。俺達は思いがけない恵みに歓喜し、戦闘訓練でもそうは見せない素早さで“証拠隠滅”を図った。だがブツの出所は知りたくもないし、考えたくもなかった。真実を知る者に常に幸福が訪れるとは限らない。何にせよ俺達コントゥベルニウム仲間の胃袋の未来はそう悪くない、その晩の俺はそう思った。骨は灰になるまで焼き、穴を掘って埋めた、何しろ世界で俺たちほど穴を掘るのが得意な連中はいない。
翌朝の点呼の時間、美食で知られるトリブヌス・ミリトゥム(幕僚将校)の一人が極めて不機嫌そうに疑念に満ちた顔で兵士一人一人の顔を睨みつけているのを見て、昨晩腹に収めた鶏や魚がやけに上等な品質だった事を思い出し、俺は全てを理解して吹き出しそうになるのを必死で堪えた。同時に、神々に愛されしクイントゥスは早死にするのではないかと不安になった。
クイントゥスがプロメテウスの様に惨たらしい代償を払う事にならなければ良いのだが、と。我が軍団にヘラクレスはいないのだから。不正ばかり働く、いけ好かない高級将校へのささやかな報復は痛快だったが、あまりに危険だった。
それに喰っちまった俺達も連帯責任を咎められ、仲良く懲罰を賜るのは御免だった。俺はすぐに穴をしっかり踏み固め、クイントゥスが鞭打ちになる様なヘマをしでかす前に“物資調達経路”の安全性について再考するように忠告した。コントゥベルニウム全員がケリアリスに死ぬほど絞られるよりは、全員でより安全な方策を練る為に知恵を絞る方が建設的だと思ったからだ。――つづく――次回、ローマ軍の物語、第9話”銀鷲の止まり木”ROMA AETERNA EST!!
補給:前世紀の悲劇的な歴史を学んだ日本人ならば良く知るとおり、兵站が機能しなければどれほど屈強な軍隊も飢えて渇き、装備補充や医療に支障を来し、戦わずとも弱体化する。ローマ軍の兵站は同時代から見れば極めて高水準にあったが、それでも敵地、特に東方遠征でしばしば露呈した様に水や食料の不足に悩まされる事が少なくなかった。戦争の趨勢を決するのは必ずしも兵士の数や技術、将帥の才能だけではなく、食料、飲料水、衛生環境、気象、地形など様々な要因が影響を及ぼした。
麦粥:プルス、小麦の粥が主食だった。現代の食事に欠かせぬジャガイモやトウモロコシや、イタリア料理に広く使われるトマト等は新大陸原産であり、ローマ帝国には無かった。これらが欧州にもたらされるのは大航海時代以降で、ジャガイモやトマトについては伝来後も品種改良を経て一般の食用となるのにさらに長い年月を要した。
ガルム:ローマ人が好んだ調味料。魚醤の一種らしい。製造工程はなかなかにグロい上に長いので省略する。軍団には希釈されたヒュドロガルムというものが納められていたようだ。現代でも再現されたものがネットで買える。
アピキウス:古代ローマの美食家、当時のレシピを書籍に残した。
ローマ建国:伝説では紀元前753年とされている。西ローマ滅亡まで1,200年以上、東ローマ(ビザンツ)滅亡までは2,206年である。人間は皆死ぬ!人の造りしものはいつか必ず滅びる、国家とて例外ではない。だが、ローマは永遠に人々の心に残り続ける。つまり、貴様ら軍団兵も永遠である!余談ではあるが、ローマ人はその年の執政官の名前や建国からの年数で暦を数えていた。西暦が一般に使われるのは大分先の事だ。
プロメテウス:ギリシア神話の神。天界の火を盗んで人類に与えたが、生きたまま肝臓を禿鷹に啄まれるという罰を与えられた。不死のプロメテウスの内臓は毎日復活した為、ドSな責めは延々と続いたが最後はヘラクレスに解放された。
とはいえ連中をあまり信頼しすぎるのは止めた方がいい。軍団の御用商人から平気で賄賂を取り、どうしようもない備品を腐るほど納入したり、必要以上に仕入れた物資を横流しして私腹を肥やす奴など珍しくもない。バレたらそいつが罰されるかと言えばそんな事は滅多に無い。
指揮し、監査する人間にも利益が供与されている限り、何もかも無かったことにされる。麗しき互恵関係と言う奴だ。もし向こう見ずな正義感に駆られた奴が余計な口出しをすれば、そいつは朝日を拝む前に“早過ぎる名誉除隊”や“経緯の明白な神隠し”を迎える事だってありうる。軍団で長生きしたければ、何を見ても口にするべきか否か良く考えてからの方が良いようだ。
そう、飯の話だ。贅沢な話だが毎日の豆スープと麦粥に飽きる事もある。それから保存のきく焼きしめたパン、魚の燻製、玉葱にチーズ、不味くはないが変化に乏しい。長距離行軍訓練が終わるまで、基地に帰り着くまでは仕方のない事だが、皆そう思っているのは明らかだ。古参の連中はどうにかして多少なりとも食に彩りを添えているらしいが、新兵の俺達には魔術でも使っている様にしか思えなかった。
ある日の夕餉の時間、クイントゥスがおもむろにピルムや枝の先に何かを付き刺し、鍋の横で炙り始めた。いい匂い、そしてとても危険な匂いがした。
鶏と魚だ。鶏はともかく内陸部で魚とは…魔術師殿は随分と身近にいたらしい。おまけに俺の友人は料理人でもあったらしい、どこに隠していたのかガルムと香辛料を使った特製のソースを丹念に塗り始めた。我等が魔術的料理人、俺達の“アピキウス”は訓練中にも見られない真剣そのものの顔で色艶を確かめ、焼き加減に満足すると呆気にとられる俺達を尻目にそいつを手早く切り分け、順番に皆の皿に放り込み始めた。
何という事だ!ローマ建国以来、これほど気前の良い男がいただろうか。俺は奴が政界に出馬するなら永遠に支持してやろうと心に誓った。俺達は思いがけない恵みに歓喜し、戦闘訓練でもそうは見せない素早さで“証拠隠滅”を図った。だがブツの出所は知りたくもないし、考えたくもなかった。真実を知る者に常に幸福が訪れるとは限らない。何にせよ俺達コントゥベルニウム仲間の胃袋の未来はそう悪くない、その晩の俺はそう思った。骨は灰になるまで焼き、穴を掘って埋めた、何しろ世界で俺たちほど穴を掘るのが得意な連中はいない。
翌朝の点呼の時間、美食で知られるトリブヌス・ミリトゥム(幕僚将校)の一人が極めて不機嫌そうに疑念に満ちた顔で兵士一人一人の顔を睨みつけているのを見て、昨晩腹に収めた鶏や魚がやけに上等な品質だった事を思い出し、俺は全てを理解して吹き出しそうになるのを必死で堪えた。同時に、神々に愛されしクイントゥスは早死にするのではないかと不安になった。
クイントゥスがプロメテウスの様に惨たらしい代償を払う事にならなければ良いのだが、と。我が軍団にヘラクレスはいないのだから。不正ばかり働く、いけ好かない高級将校へのささやかな報復は痛快だったが、あまりに危険だった。
それに喰っちまった俺達も連帯責任を咎められ、仲良く懲罰を賜るのは御免だった。俺はすぐに穴をしっかり踏み固め、クイントゥスが鞭打ちになる様なヘマをしでかす前に“物資調達経路”の安全性について再考するように忠告した。コントゥベルニウム全員がケリアリスに死ぬほど絞られるよりは、全員でより安全な方策を練る為に知恵を絞る方が建設的だと思ったからだ。――つづく――次回、ローマ軍の物語、第9話”銀鷲の止まり木”ROMA AETERNA EST!!
補給:前世紀の悲劇的な歴史を学んだ日本人ならば良く知るとおり、兵站が機能しなければどれほど屈強な軍隊も飢えて渇き、装備補充や医療に支障を来し、戦わずとも弱体化する。ローマ軍の兵站は同時代から見れば極めて高水準にあったが、それでも敵地、特に東方遠征でしばしば露呈した様に水や食料の不足に悩まされる事が少なくなかった。戦争の趨勢を決するのは必ずしも兵士の数や技術、将帥の才能だけではなく、食料、飲料水、衛生環境、気象、地形など様々な要因が影響を及ぼした。
麦粥:プルス、小麦の粥が主食だった。現代の食事に欠かせぬジャガイモやトウモロコシや、イタリア料理に広く使われるトマト等は新大陸原産であり、ローマ帝国には無かった。これらが欧州にもたらされるのは大航海時代以降で、ジャガイモやトマトについては伝来後も品種改良を経て一般の食用となるのにさらに長い年月を要した。
ガルム:ローマ人が好んだ調味料。魚醤の一種らしい。製造工程はなかなかにグロい上に長いので省略する。軍団には希釈されたヒュドロガルムというものが納められていたようだ。現代でも再現されたものがネットで買える。
アピキウス:古代ローマの美食家、当時のレシピを書籍に残した。
ローマ建国:伝説では紀元前753年とされている。西ローマ滅亡まで1,200年以上、東ローマ(ビザンツ)滅亡までは2,206年である。人間は皆死ぬ!人の造りしものはいつか必ず滅びる、国家とて例外ではない。だが、ローマは永遠に人々の心に残り続ける。つまり、貴様ら軍団兵も永遠である!余談ではあるが、ローマ人はその年の執政官の名前や建国からの年数で暦を数えていた。西暦が一般に使われるのは大分先の事だ。
プロメテウス:ギリシア神話の神。天界の火を盗んで人類に与えたが、生きたまま肝臓を禿鷹に啄まれるという罰を与えられた。不死のプロメテウスの内臓は毎日復活した為、ドSな責めは延々と続いたが最後はヘラクレスに解放された。
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2014-08-14 00:22
Comments (17)
そうか! あれは「ヒュドロガルム」と読むのか!←ずっと「ハイドロ=ガルム」とルビを付けていた馬鹿者w 某【背教者】タグで辿りついて以来、毎回閲覧させてもらい、毎度勉強させてもらっていますw
View Replies魚ですか、流石将校様のお食事は下々とだいぶ異なるのですね。ついでにワインの入ったアンフォラも1本ぐらい失敬して…、あら隊長殿何事でありますかこんな夜更けに…(以下ダムナティオ・メモリアエ
View Replies鶏の魚醤漬け焼……うぅむ、実に美味しそうですな。 ガルムに関してはセスタスで読んで以来興味ありますが、どんな味だったんでしょうねぇ。
View Repliesこの多彩さがローマって感じがしますね… どいつもこいつもキャラが立っていらっしゃる!
View Replies古の言葉に「腹が減っては戦は出来ぬ」というものがあります。これを真に理解した者が、戦場の趨勢を決めるのでしょう。
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