1462年6月17日”串刺し公“
あけましておめでとうございます。新年最初の投稿は、Fate/Grand Orderより、我らがヴォエヴォド・ヴラド三世を。本当は召喚祈願絵としてヴラド三世のイラストを描こうと思ったのですが、描く前にお迎えできてしまったので召喚記念絵として。今では我がカルデアのエースとして頑張ってくれています。ヴラド三世は、小学生の頃テレビ番組で彼の特集をやっていて、「吸血鬼ドラキュラのモデルはこんな人物だったのか……!」と僕の歴史趣味の元凶となった人物の一人なので、非常に思い入れがあり、彼を召喚出来てとても嬉しく思います。
時は15世紀半ば、1000年以上の歴史を持つ東ローマ帝国を滅ぼし、東欧と西アジアの一大勢力となったオスマン帝国の攻撃に、東欧の諸国家はさらされた。ハンガリー王国、モルダヴィア公国(モルドヴァ)、そして現在のルーマニア南部に位置しヴラド三世の治めるワラキア公国。最初、ワラキア公国はオスマン帝国に従属していたが、やがてハンガリー王国に接近した。そして、ヴラド三世はオスマン帝国に従うと見せかけて奸計にはめて、オスマンの地方総督とその軍を制圧した。それに加え、ヴラド三世率いるワラキア公国軍はドナウ川を越えて何度もオスマン帝国領に攻め込み、破壊と略奪の限りを尽くした。憤ったオスマン帝国皇帝、後に”征服者“と呼ばれ名高いメフメト二世はワラキア公国の征服を決定、15万の陸軍と海軍を招集して、1462年3月22日ワラキアに攻め込んだ。対するヴラド三世のワラキア公国側は、武器を持ったことのないような農民までかき集めて3万弱の戦力しか持っていなかった。
ワラキアに攻め込んだオスマン帝国軍が見たのは、どこまでも続く無人の地であった。町や村は既に焼かれ、田畑もまた焼かれ、家畜の姿も見えなかった。井戸には毒が投げ込まれており、水を飲むことは出来なかった。これは、ヴラド三世の作戦であった。老人や女性、小さな子供など戦えそうにない者は安全な山中に隠し、略奪に補給を頼る敵の消耗を狙うために食べられるものを予め取り除いておいたのである。彼の予想通り、間もなくオスマン帝国軍に飢えと渇きが蔓延した。ふらふらになった兵士たちの士気はみるみるうちに低下した。食糧を探すためにオスマン帝国軍本隊を離れた部隊は、ワラキア兵の待ち伏せにあって二度と戻ってくることはなかった。ワラキア公国軍は神出鬼没のゲリラ作戦を展開し、オスマン帝国軍に恒常的な流血を強いた。飢えと渇き、そしていつどこから襲ってくるか分からない姿の見えない敵の恐怖で、オスマン兵たちは疲労困憊していた。しかし、メフメト二世のワラキア征服の意志は強く、彼らは前進し続けた。
開戦から三か月ほどたった頃、オスマン帝国軍はワラキア公国首都トゥルゴヴィシュテ郊外の丘に堅固な陣地を築いた。ここでヴラド三世は、一か八かの賭けを実行した。すなわち、敵陣への夜襲を行い、メフメト二世の首を取る、と。作戦実行の前日、ヴラド三世自らオスマン兵に変装して敵陣に潜入し、陣地の構造を綿密に把握した。そして、この作戦の為に選抜した7000騎の騎兵隊全員に対して情報を伝え、狙うは皇帝の首一つ、と告げた。1462年6月17日深夜、ヴラド三世自ら先頭に立った7000騎のワラキア騎兵隊は、オスマン帝国軍陣営への突撃を敢行した。陣営の周縁部を守っていたオスマン帝国軍部隊は、ワラキア公国軍の猛攻によりあっという間に蹴散らされた。ワラキア騎兵隊は、行く手に立ちはだかる者を片っ端から斬り倒し、皇帝の天幕へと突き進む。突然の攻撃に気が動転したオスマン兵は、同士討ちまで始めてしまった。ワラキア騎兵隊は、遂にメフメト二世の天幕前まで辿り着いた。だが、そこで皇帝の親衛隊イェニチェリの壁が立ち塞がり、激しい白兵戦が始まった。ワラキア公国軍は彼らに阻まれ、どうしても天幕の中に侵入できず、やがて夜明けが近づいてヴラド三世は撤退を命令した。
数日後、混乱の収まったオスマン帝国軍はヴラド三世の命令で廃墟となったトゥルゴヴィシュテを目にし、次いで郊外の平野でおぞましい光景を目にした。2万人以上のオスマン兵が串刺しにされ、野ざらしにされていたのである。オスマン兵たちは恐れ戦き、ヴラド三世をこう呼んだ“カズィクル・ベイ“(トルコ語で串刺し公の意)。メフメト二世もまた兵士たちと同様に戦意を無くし、全軍に撤退の命令を下した。こうして、ヴラド三世率いるワラキア公国は、圧倒的不利な状況をひっくり返し、オスマン帝国に勝利したのである。
これがFate/Grand Orderの10月に開催されたハロウィンイベントのシナリオで、ヴラド三世が“護国の鬼将”と呼ばれていた所以のエピソードです。
という訳で、Fate/Grand Orderのヴラド三世に当時の格好をしてもらいました。これからオスマン帝国軍陣営への攻撃に向かうイメージで。ドイツ製のゴシック式プレートアーマーに、ヴェネツィア海軍の水兵が使っていた槍コルセスカ、ハンガリー王国を築いた騎馬民族マジャール人由来のサーベル、イタリア製の馬鎧と統一性のない武装ですが、ワラキア公くらいの高位の人物なら外国製の優秀な武具を輸入して使っていてもおかしくないだろうと思いまして、これらを選びました。背後の兵士たちは、東欧現地の武装をさせました。ヴラド三世が東欧にありがちな東ローマ風の武装をしている15世紀の版画も見つけたのですが、小札鎧を描くのはもう疲れた……ということでこれで許して下さい。ヴラド三世のポーズは、中島三千垣『軍靴のバルツァー』5巻の表紙のハウプトマン・ニールセン大尉の絵を参考にしました(同一ではない)
長々と乱文を連ねてしまい、失礼しました。今年も宜しくお願い致します。
追記:卒業論文は提出を終えましたが、「これから大学院に行くことが決まっている人は卒論を公開することは控えた方が良い」とゼミ担当教授に言われたので、卒業論文を小説投稿機能を使って上げるのは止めさせて頂きます。ご了承下さい。
時は15世紀半ば、1000年以上の歴史を持つ東ローマ帝国を滅ぼし、東欧と西アジアの一大勢力となったオスマン帝国の攻撃に、東欧の諸国家はさらされた。ハンガリー王国、モルダヴィア公国(モルドヴァ)、そして現在のルーマニア南部に位置しヴラド三世の治めるワラキア公国。最初、ワラキア公国はオスマン帝国に従属していたが、やがてハンガリー王国に接近した。そして、ヴラド三世はオスマン帝国に従うと見せかけて奸計にはめて、オスマンの地方総督とその軍を制圧した。それに加え、ヴラド三世率いるワラキア公国軍はドナウ川を越えて何度もオスマン帝国領に攻め込み、破壊と略奪の限りを尽くした。憤ったオスマン帝国皇帝、後に”征服者“と呼ばれ名高いメフメト二世はワラキア公国の征服を決定、15万の陸軍と海軍を招集して、1462年3月22日ワラキアに攻め込んだ。対するヴラド三世のワラキア公国側は、武器を持ったことのないような農民までかき集めて3万弱の戦力しか持っていなかった。
ワラキアに攻め込んだオスマン帝国軍が見たのは、どこまでも続く無人の地であった。町や村は既に焼かれ、田畑もまた焼かれ、家畜の姿も見えなかった。井戸には毒が投げ込まれており、水を飲むことは出来なかった。これは、ヴラド三世の作戦であった。老人や女性、小さな子供など戦えそうにない者は安全な山中に隠し、略奪に補給を頼る敵の消耗を狙うために食べられるものを予め取り除いておいたのである。彼の予想通り、間もなくオスマン帝国軍に飢えと渇きが蔓延した。ふらふらになった兵士たちの士気はみるみるうちに低下した。食糧を探すためにオスマン帝国軍本隊を離れた部隊は、ワラキア兵の待ち伏せにあって二度と戻ってくることはなかった。ワラキア公国軍は神出鬼没のゲリラ作戦を展開し、オスマン帝国軍に恒常的な流血を強いた。飢えと渇き、そしていつどこから襲ってくるか分からない姿の見えない敵の恐怖で、オスマン兵たちは疲労困憊していた。しかし、メフメト二世のワラキア征服の意志は強く、彼らは前進し続けた。
開戦から三か月ほどたった頃、オスマン帝国軍はワラキア公国首都トゥルゴヴィシュテ郊外の丘に堅固な陣地を築いた。ここでヴラド三世は、一か八かの賭けを実行した。すなわち、敵陣への夜襲を行い、メフメト二世の首を取る、と。作戦実行の前日、ヴラド三世自らオスマン兵に変装して敵陣に潜入し、陣地の構造を綿密に把握した。そして、この作戦の為に選抜した7000騎の騎兵隊全員に対して情報を伝え、狙うは皇帝の首一つ、と告げた。1462年6月17日深夜、ヴラド三世自ら先頭に立った7000騎のワラキア騎兵隊は、オスマン帝国軍陣営への突撃を敢行した。陣営の周縁部を守っていたオスマン帝国軍部隊は、ワラキア公国軍の猛攻によりあっという間に蹴散らされた。ワラキア騎兵隊は、行く手に立ちはだかる者を片っ端から斬り倒し、皇帝の天幕へと突き進む。突然の攻撃に気が動転したオスマン兵は、同士討ちまで始めてしまった。ワラキア騎兵隊は、遂にメフメト二世の天幕前まで辿り着いた。だが、そこで皇帝の親衛隊イェニチェリの壁が立ち塞がり、激しい白兵戦が始まった。ワラキア公国軍は彼らに阻まれ、どうしても天幕の中に侵入できず、やがて夜明けが近づいてヴラド三世は撤退を命令した。
数日後、混乱の収まったオスマン帝国軍はヴラド三世の命令で廃墟となったトゥルゴヴィシュテを目にし、次いで郊外の平野でおぞましい光景を目にした。2万人以上のオスマン兵が串刺しにされ、野ざらしにされていたのである。オスマン兵たちは恐れ戦き、ヴラド三世をこう呼んだ“カズィクル・ベイ“(トルコ語で串刺し公の意)。メフメト二世もまた兵士たちと同様に戦意を無くし、全軍に撤退の命令を下した。こうして、ヴラド三世率いるワラキア公国は、圧倒的不利な状況をひっくり返し、オスマン帝国に勝利したのである。
これがFate/Grand Orderの10月に開催されたハロウィンイベントのシナリオで、ヴラド三世が“護国の鬼将”と呼ばれていた所以のエピソードです。
という訳で、Fate/Grand Orderのヴラド三世に当時の格好をしてもらいました。これからオスマン帝国軍陣営への攻撃に向かうイメージで。ドイツ製のゴシック式プレートアーマーに、ヴェネツィア海軍の水兵が使っていた槍コルセスカ、ハンガリー王国を築いた騎馬民族マジャール人由来のサーベル、イタリア製の馬鎧と統一性のない武装ですが、ワラキア公くらいの高位の人物なら外国製の優秀な武具を輸入して使っていてもおかしくないだろうと思いまして、これらを選びました。背後の兵士たちは、東欧現地の武装をさせました。ヴラド三世が東欧にありがちな東ローマ風の武装をしている15世紀の版画も見つけたのですが、小札鎧を描くのはもう疲れた……ということでこれで許して下さい。ヴラド三世のポーズは、中島三千垣『軍靴のバルツァー』5巻の表紙のハウプトマン・ニールセン大尉の絵を参考にしました(同一ではない)
長々と乱文を連ねてしまい、失礼しました。今年も宜しくお願い致します。
追記:卒業論文は提出を終えましたが、「これから大学院に行くことが決まっている人は卒論を公開することは控えた方が良い」とゼミ担当教授に言われたので、卒業論文を小説投稿機能を使って上げるのは止めさせて頂きます。ご了承下さい。
60
35
4416
2016-01-24 15:34
Comments (10)
うちの初期星5でエースの宝具レベル2のおじ様の詳細な武勲が知れて感激です。ヴラドの絆クエストではヴラドの吸血鬼としての悩みが本当に悲しそうで、今後救われて欲しいキャラです
View Repliesルーマニアと聞くと、第一次大戦では戦いで負けたくせに、火事場泥棒で領土を手に入れ、次の大戦では独ソ戦でドイツの足を引っ張りまくって、戦後チャウシェスクがやらかしまくって欧州一HIVが多くなったとか禄でもないエピソードしか聞かないなぁ~ウラド公は泣いていいと思う・・・
View Repliesワラキア公は某所のルーマニア戦記が好きだなぁ
View Repliesヴラド公に関する詳しいエピソード、ありがとうございます!そんなに凄い英霊だったんだ…アポのランサーとしてのヴラド公が吸血鬼としての汚名を無くしたいって言っていたのもわかります。
View Replies漆黒の巨馬に騎乗し全軍の先頭に立たれるヴラド三世公の威圧的なまでに凛々しいお姿、素敵です!劣勢の軍が取りうる策として焦土戦術は理にかなっておりますが、その実行の為には相当の権力がなければなりません。ヴラド公はそれを持たれていたのでしょうね。院試合格、おめでとうございます!!
View Replies